主に、同級生にむけて“ばか”とか“あほ”と同義で使われていたと思う。そんなある日、担任の先生から「“がいじ”は差別用語なので使わないように」と言われた。
そうしたら、一人の子が手をあげて「“ろんがい”も使っちゃだめですか?」と質問した。
“ろんがい”は論外のことなので差別用語ではない。でも、その違いを小学生に説明するのは難しくて、先生も一瞬言葉につまった。
小学生にとって“がいじ”と“ろんがい”の言葉の差はあまりない。
その言葉の意味とか差は正直どうでもよくて、ただ“ばか”とか“あほ”みたいな幼稚な言葉にかわる他の罵倒を言いたかっただけである。
時はうつって現在では、“がいじ”はすっかり死語となったが、“コミュ障”や“アスペ”という新たな言葉が現れた。自閉症スペクトラムな人たちへの蔑称だ。
大人になった今でもやっぱり本当の意味はどうでもいい。“ばか”とか“あほ”と野次りたいとき、自分のことを“人見知り”と言いたいときに、それらの言葉に変わる何かがほしいだけである。
長々と書いてしまったが要するに何が言いたいかというと、日常会話やSNSで「おれコミュ障だわーw」と軽々しくいう人が大嫌いである。軽快に言えてる時点でお前はコミュ障ではない。土に帰れ。
先日実験レポートをしに図書館へ行ったときについでに読んだこころの科学の特集が“コミュ障”だったので[1]、この投稿を書きたくなった。差別用語も時代とともに変わっていくものである。次はどんなことばがはやるだろう。
参考文献
[1]山澄敬之(編)(2017).こころの科学 191号
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